演劇は「喋る」ことによって、内容を伝えるものと思われがちだが、昨日見た太田省吾作、キム アラ演出の『砂の駅』、そして今日の、京都出身の三浦基率いる地点のパフォーマンスは、この常識に反するものだった。 『砂の駅』は沈黙劇。役者は言葉を発することなく、舞台上で次々とドラマを繰り広げていく。内容はありそうでなく、なさそうであって、観客の想像力によってドラマが引き出されていくようになっている。一方地点の公演は、5人のパフォーマーがひたすら言葉を発するのだが、その言葉はドキュメントや戯曲からの抜粋が組み合わされたテキストだ。5人は、観客席に座り、何もない舞台に向かって、ひたすら言葉を発する。特に身体に重点が置かれているわけではないが、言葉をいろんな風に発語することで、ある種のエネルギーのようなものが生まれてくる。そのままではとても読めないし理解できないテキストのエッセンスが、様々な形状の語り口を通して伝わってくる。
両者共に、独自の方法論で、人間の根源的存在を追求しようとしているが、こうして比べてみると、前者では、発せられない言葉(はっきりとした内容を持つ場合と持たない場合がある)が体に負荷をかける。体は普段では見られない表情をあらわしはじめる。大きな社会という枠組みの中で起こる小さな物語。後者では、書かれた言葉に面と向かうことによって、言葉(非常にはっきりとした内容を持つ)に定義されがちな体を、再定義していくような試みに思われた。テキストに「日本国憲法」と別役実の「象」を使うことによって、現在の日本の置かれた状況を、ベタでなく示唆したのは洒落ている。大きな社会の枠組みの中で起こることの批評。
両者に共通しているもう一つのことは、人が人と、私達が知っているような形では向き合わないということである。1996年に太田省吾さんの『裸足のフーガ』を英訳し、舞台化するということで、初めてお会いした。太田さんは紙にいくつか丸(人を表す)と矢印(向いている方向)を書かれて、「日本に西洋演劇が入ってきてから、こうだったのが、(二人の矢印が両方とも前を向いている、つまり向き合っていない)こうなっちゃったんだよ(二人の矢印がお互いの方を向いている)」と仰った。向き合うとどうなるのか?「個人」が曖昧になってしまう。一人一人がバブルのような丸の世界を持っているとすると、二人が前を向いた時には、自分の世界を保ちながら、交わったところで、その人と関わっている。ところが、二人が向き合うと、一つのバブルの中に入ってしまう。このバブルは社会という大きなバブルの中に統合されていく。『砂の駅』では個人の、普段は現れない内面が、静かに又は激しく、外に溢れ出る。地点のパフォーマンスでは、個人は叫んで訴え続ける。あくまで「個」があり、「社会」なのだ。再び自由ということを考えさせられた。